大久野島戦争遺構
穏やかな瀬戸内海に浮かび、たくさんの愛らしいうさぎたちが迎えてくれる島、大久野島。
しかし、その「光」とも言える現在の姿の裏には、かつて日本地図からその存在を消されていた「影」の歴史が深く刻まれています。
秘密裏に毒ガスが製造されていた、戦争の時代。静かに佇むレンガ造りの建物や、苔むしたコンクリートの構造物。
うさぎたちと触れ合う穏やかな時間の合間に、少しだけ足を止めて、この島が秘めてきた「影」の物語に耳を傾けてみませんか?
- 大久野島戦争遺構
- なぜ「地図から消された」のか
- 主な戦争遺構
- 影を知り、光を見つめる旅
なぜ「地図から消された」のか
かつて、大久野島は1929年(昭和4年)から終戦までの間、旧日本陸軍の毒ガス製造拠点でした。ここでは、「イペリット」や「ルイサイト」といった毒ガスが秘密裏に製造されていたのです。
化学戦の実態は厳重に秘匿され、その事実は地図から島を消し去るほど徹底されました。当時、島で働いていた人々も、仕事の内容を家族にすら明かすことは許されなかったと言います。
現在の穏やかな島の風景からは想像もできない、重い歴史がこの島には刻まれています。
島に残る「影」を巡る – 主な戦争遺構
島内には、当時の記憶を生々しく伝える遺構が今も点在しています。
それらは、私たちが平和の尊さを再認識するために訪れるべき「歴史の証人」です。
2.自動交換器室跡(通信壕跡)
敵の空襲に備え、迷彩を施した頑丈な壕でした。非常の場合に備え、電話の自動交換器が置かれていました。今も残る黄色や緑色のコンクリートが、当時のカモフラージュの様子を伝えています。
3.大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑
危険で苛酷な毒ガス生産や戦後の処理に従事し、亡くなった人々の名簿が納められています。毎年10月には慰霊式が執り行われ、悲惨な被害を繰り返さないよう誓っています。慰霊碑の横には、亡くなられた毒ガス障害者の思いが刻まれた宣言もあります。
4.大久野島神社 神社前の広場 殉職碑
現在の休暇村宿舎近くにあった神社を毒ガス工場開所(1929年)の際、従業員たちが社殿を修復して「大久野島神社」とし、現在の場所に移転しました。境内では様々な行事(紀元節、天長節など)や式(入学式・卒業式など)が行われ、1937年には、境内に毒ガス生産による犠牲者の殉職碑が建てられました。
- 危険防止のため立ち入りはできません。
5.医務室跡
当初は診療所程度でしたが、1937年頃に入院病棟も建てられ、歯科、内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科が置かれ、またレントゲン室、毒ガス治療室、 病室(30ベッド)を備えた本格的な病院となりました。現在は海水浴場前の広場になっており、当時使用された水道栓が残っています。
6.陸軍の石柱と境界線
灯台に向かう石段のところに残る、「陸軍所轄地」などと書かれた石柱。この島が軍用地になってから、灯台と毒ガス工場の敷地とが厳重な有刺鉄線で隔てられていたことを示しています。
7.南部照明所跡
芸予要塞時代(1904年頃)、探照灯(サーチライト)が置かれていた場所です。夜間に海面を照らし、敵艦を探知する役割を担っていました。現在は、電灯井の部分と下の部屋が残っています。
8.防空壕跡
戦時中、島内には約50箇所の防空壕が掘られました。毒ガスや関連物資を置くために作られ、現在も島のあちこちで石積のある入り口を見ることができます。
9.研究室・検査工室
白い建物が毒ガスの研究開発を行った「研究室」、隣の灰色の棟が毒ガスの効力を試す検査などを行った「検査工室」でした。古い写真には、当時のこの2つの建物が写っています。
- 危険防止のため立ち入りはできません。
10.三軒家工場群跡
毒ガス製造の中心となった工場地帯の跡地です。びらん性ガス(イペリット・ルイサイト)、くしゃみ性ガス、青酸ガスなどの製造工場や毒ガスを充填する工室、汽缶場、修理工場などの建物が建ち並んでいました。戦後、工場は解体され、現在は広場になっています。
11.毒ガス貯蔵庫跡
島内に複数点在する毒ガスの貯蔵庫です。重厚なコンクリートの壁で覆われ、独特の丸いドーム状のものが多いです。
ひんやりとした空気が漂う貯蔵庫の前に立つと、当時ここで何が行われていたのか、その重い事実に言葉を失うかもしれません。
-
長浦毒ガス貯蔵庫跡
島内で一番大きい貯蔵庫で、今も巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っています。ここには約100トン入るタンクが6基置かれていました。戦後処理の際、毒性を取り除くために火災放射器で焼き払って、黒くただれた壁画が今でもその凄惨さを物語っています。戦後、ここに残っていた毒ガスは土佐沖の太平洋に海洋投棄されました。
-
野ざらし貯蔵タンク跡
毒ガスタンクを置いていた台座が 32個もあり、たくさんの毒ガスが貯蔵されていました。現在、周りは森林になっていますが、当時は少し高い平地でした。この貯蔵庫は、コンクリートの部屋ではなく木造の建物で、簡単な屋根がついていました。
12.砲台跡
島内には、毒ガス製造以前、明治時代に芸予要塞の一部として築かれた砲台の跡も残っています。
大久野島が軍事的にクローズアップされたのは、日露戦争前の1902年に芸予要塞が設置され、大久野島に砲台が設置されたときからでした。大久野島が古くから「軍事」と深く関わってきたことを示しています。
海の防衛拠点から、秘密兵器の製造所へ。島の役割が変遷していった歴史の層を感じ取ることができます。
-
北部砲台跡
北部砲台には8門の大砲が設置されていました。毒ガス工場があった時代には、ここに大きな毒ガスタンク(ヒ素を原料とするルイサイト)が置かれており、戦後処理の際にタンクを焼却処理したため、1996年にヒ素汚染が発覚し、1999年に土壌を洗浄処理しました。
-
中部砲台跡
中部砲台には芸予要塞時代に6門の28cm榴弾砲が置かれていました。日露戦争の時、6門のうち2門が朝鮮半島に運ばれ、旅順攻撃に使われました。兵士たちの仮眠できる兵舎もありました。この兵舎は毒ガス製造期には毒ガス製品、並びに原料置き場などに使われました。現在も砲座跡と兵舎の建物が残っています。
13.発電所跡
第二桟橋付近に位置する、ひときわ大きなコンクリートの建物。ディーゼル発電機を重油で動かし発電しました。当初は240V発電機が3台でしたが、1933年に3台、1934年には2台が増設されました。さらに、1941年には忠海から22KVの海底ケーブル2本によって受電し、既設の発電設備を併用して電力を賄いました。敗戦前には、この建物で女子動員学徒による風船爆弾のテストも行われていました。
現在、内部は立ち入り禁止となっていますが 、蔦に覆われながらも力強くそびえ立つ姿は、当時の島の「心臓部」であったことを物語っています。
影を知り、光を見つめる旅
大久野島の戦争遺構を巡ることは、決して楽しいだけの体験ではないかもしれません。
しかし、過去の「影」から目をそらさず、その事実に真摯に向き合うこと。
それこそが、今私たちが享受している「光」であり、平和な日常や、島で元気に跳ね回るうさぎたちの生命の輝きを、より深く、かけがえのないものとして感じさせてくれるはずです。
大久野島が伝える、光と影の物語。
ぜひ、あなたの目で、耳で、心で、この島が発するメッセージを受け取りに来てください。