
大久野島への玄関口として、多くの観光客が訪れる竹原市忠海地区。
穏やかな瀬戸内海を望むこの町には、かつて海を舞台に活躍した戦国武将の足跡が残されています。
その人物が、浦宗勝(乃美宗勝)です。
宗勝は、小早川隆景に仕え、水軍の将として活躍した武将。忠海に築かれた賀儀城を拠点に、戦国時代の瀬戸内海を駆けました。
現在の忠海には、宗勝が拠点とした賀儀城跡や、ゆかりの文化財を伝える勝運寺が残されています。
竹原に残る戦国時代の痕跡をたどってみましょう。
小早川隆景を海から支えた武将

浦宗勝は、一般に乃美宗勝の名でも知られる、小早川氏の武将です。
小早川隆景の水軍の将として、厳島合戦や、山口の戦、秀吉の四国攻め、九州攻め、文禄の役などに出陣し、手柄を立てました。
山城や陸上での合戦だけでなく、海上交通や船による輸送が大きな意味を持っていた瀬戸内海。
宗勝は、そうした海の力を担った武将の一人でした。
海に突き出した城・賀儀城跡

宗勝の拠点となった賀儀城は、海に突き出した標高約25メートルの小高い丘に築かれていました。
現在は公園として整備され、城跡には二の丸北側の土塁が残されています。
大規模な天守や石垣が残る城ではありませんが、海に近い立地から、賀儀城が海上交通を意識して築かれた城であったことを感じられます。
城跡の西側にある深い湾は、かつて船を停泊させた「船溜まり」であったと語り継がれています。
現在の穏やかな海を眺めながら、数多くの船が行き交った戦国時代の忠海に思いを巡らせてみてください。
宗勝の菩提寺・勝運寺

賀儀城跡からほど近い場所にある勝運寺は、宗勝の菩提寺として建立された曹洞宗の寺院です。
元亀元年(1570)に起工し、天正9年(1581)に完成したと記録されています。
宗勝は天正20年(1592)に亡くなり、その遺髪は勝運寺に納められたと伝えられています。境内には、宗勝の遺髪を納めたとされる供養塔が残されています。
勝運寺には、宗勝に関係する文化財も伝わっています。
その一つが、車輪の付いた大きな弾薬輸送庫です。竹原市の重要文化財に指定されており、小早川隆景から宗勝に贈られたものと伝えられています。
宗勝と隆景の主従関係を現在に伝える、貴重な資料の一つです。

長善寺に伝わる、石山合戦の軍船旗

竹原市東野町の長善寺にも、戦国時代の海上輸送に関係する資料が残されています。
長善寺が所蔵する石山合戦旗には、
「進者往生極楽 退者無間地獄」
という言葉が記されています。
この旗は、織田信長と石山本願寺が争った石山合戦の際、兵糧などを輸送する船の舳先に掲げられていたと伝わるものです。
長善寺の門徒たちは、毛利軍とともに兵糧船を出したと伝えられています。
賀儀城や勝運寺が水軍を率いた武将の歴史を伝えるのに対し、長善寺の資料からは、海上輸送を担い、戦いを支えた地域の人々の存在が見えてきます。

竹原に残る、もう一つの戦国時代
竹原の戦国史跡には、華やかな天守や大規模な石垣が残っているわけではありません。
しかし、海を望む城跡、武将の菩提寺、寺院に伝わる旗や文化財をたどることで、竹原と瀬戸内海が戦国時代の歴史と深く関わっていたことが見えてきます。
小早川隆景を海から支えた浦宗勝。
その足跡をたどりながら、うさぎの島だけではない、忠海と竹原の歴史に触れてみませんか。

【見学にあたって】
寺院や文化財の見学には、事前予約が必要な場合があります。
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