Introduction
穏やかな瀬戸内の海と恵みを気軽に味わえるトラットリア(気楽な食堂)「エム」。気さくなご夫婦が届けるのは、土地の命を生かした飾らない皿。人と人がつながり、竹原の心地いい温もりがテーブルいっぱいに広がります。

竹原にひかれ
2017年に移住して開業
オーナーシェフの室岡真人さんは、静岡県生まれ。高校卒業後は関東のホテルや飲食店に勤め、調理だけでなく接客や店舗運営を学び、40歳を前にして独立開業を決意しました。妻の久美子さんの実家がある竹原の豊富な食材とおいしい酒、この街の風景や歴史、そして何より温かな人々に深く惹かれ、2017年に家族とともにこの地へ。そして、夫婦でイタリア料理店を開店。日々の暮らしの中で感じる竹原の魅力を、今日もひと皿の料理にのせて届けています。


穏やかな朝の漁港
恵みを紡ぐ“競り”
風が心地いい漁港の朝。小さな漁港に会話が飛び交い笑顔があふれる和やかな風景は、懐かしさの残るこの地の原風景です。真人さんも週に2回程度、吉名漁港の競りに参加して自ら買い付けています。ここで会う人たちと会話する時間が好きだと、うれしそうに教えてくれました。「この地の新鮮な瀬戸内の恵みを、おいしく食べてもらいたい」。そんな漁師さんたちの思いを受け取り、お店に持ち帰り、お客様へと伝えています。




一見おだやかな瀬戸内海ですが、島々の間を抜ける潮の流れは驚くほど急です。その激流にもまれた魚たちは、小ぶりながらも身がキュッと引き締まり、噛みしめるほどに素朴な旨味が広がります。「強い脂や旨味ではなく、『あぁいいねえ』と体に染みる旨さ」と真人さん。その飾らない味に寄り添うのが、竹原の地酒です。「懐が深くて、魚だろうがなんだって受け止めてくれるんです」。土地の恵み同士が引き立て合う、素朴で贅沢な時間です。


「競りには目的を決めて行かないんです。タコがあればタコの料理を考える、それが面白いんです」と真人さん。仲介を通さず直接競り落とすからこそ、瀬戸内の魚を気負わない価格で出せるのも魅力です。今日のアクアパッツァも「仕入れたのがスズキだったから」というシンプルな理由。港の恵みをそのまま気楽に味わってもらうため、仕入れたばかりの旬の魚を携えて厨房へ戻り、すぐにその日の仕込みを始めます。

生産者の思いを
料理を通して伝えたい
漁港へも里山の畑へも車で十数分。気軽に足を運べる距離にたくさんの生産者がいて、畑から直接食材を分けていただきます。このぜいたくな仕入れは、コンパクトな竹原という街ならではです。生産者との会話から、新しいメニューのアイデアが生まれてきます。「どんな人が、どんな苦労やこだわりを持って作っているかまで届いてこそ、本当のごちそうだと思うんです」と真人さん。作り手の顔が浮かぶ素材と、日々楽しく向き合っています。



お店で仕込みを始める前の朝の時間。この日は夫婦で、宗越農園さんのイチジク畑を訪ねました。ちょっと小さなイチジクをよけながら、しっかり育ったイチジクを渡してくれる農家さん。「妥協を許さないプロの誇りを感じます」と久美子さん。預かったイチジクを今日のおすすめの一皿に、また使い切れないものは冷凍保存やソースにするなどして次のメニューに。「余すことなくおいしく仕上げなければと、一層気持ちが引き締まります」と真人さんの表情に静かな覚悟がにじみます。



この夫婦の思いは、厨房での工夫にとどまらず、この地域の実りを地域みんなで支え合っていく新たな取り組みへと広がっています。例えば、農家さんの閑散期に、収穫したものを加工することができれば、農家さんの売上にもつながります。一人の困りごとをみんなで支え合えるような仕組みをつくりたいというのが二人の願い。この地の恵みをつなぐ情熱が、店の外にもじわじわと広がっています。

テーブルに広がる
この地の美味しい循環
厨房で腕を振るう真人さんと、笑顔で客席を切り盛りする久美子さん。黒板には、今朝仕入れた魚や畑の恵みが日替わりで並びます。湯気とともに運ばれてくるアクアパッツァやパスタ。気負わない接客と温かな会話が場を和ませ、港や畑の鮮度がそのままテーブルへ。訪れた私たちは、生産者の想いと素材の息吹を畑や海から最短距離で受け取ります。上質なオリーブオイルに引き立てられたみずみずしさと熱気を、はふはふと頬張ります。



「料理に合わせるのは、ワインだけではありません。ぜひ試していただきたいのが、竹鶴酒造、藤井酒造、中尾醸造という竹原にある3つの蔵の日本酒です。どれも懐が深く、滋味豊かな味わいです。一口いただいたあとに広がるのは、「イタリア料理と日本酒が、こんなに相性がいいとは」という驚きと静かな感動です。蔵人の誇りが宿る美酒が、料理の余韻をより豊かに深めてくれます。この街を訪ねる楽しみが、また一つ増えていきます。




店を始めた頃、街にはパスタを食べられる店がほぼありませんでした。「昔は照れくさそうに頼んでいた方が、通ってきてくださるのが嬉しい」と真人さんは目を細めます。「この店での出会いを入り口に、直売所や酒蔵へも足を運んでほしい。生産者とお客様を橋渡ししておつなぎする。これも私たちの大切な使命だと思っています」。その言葉を裏付けるように、今日も素材とじっくり向き合い、土地の豊かな旨味を引き出しています。

毎日みとれる竹原、
美しい景色もごちそう
「国道185号から望む海の表情は、毎日見ても飽きません」と真人さん。仲間と海岸にモニュメントを建て花畑を整備したのも、竹原を好きになってほしいという一心から。久美子さんが月1回営むスパイスカレーのキッチンカーも、美しい景色のもとを訪れては新たな賑わいを生み出しています。「竹原の景色もごちそうです」と笑う二人。大好きな風景と人の温もりを料理とともに未来へつなぎたい。「店を長く続けることが街の元気になる」。海を見つめ、願いを重ねます。


